特定非営利活動法人「ゆめ豊かにちなん」 日南市 農地・水・環境保全向上対策事業組織

Ancient Hyuga that opens in sea

トップページ → Menu → 用語語句の解説 → 海にひらく 古代日向
海にひらく 古代日向

1 玉璧 串間出土説の謎

玉璧

 宮崎が「陸の孤島」と呼ばれるようになったのは、何時からだろうか。鉄道が主役だった時代、単線の悲しさ、例えば大分と宮崎の県境、大分側にある宗太郎駅で、待ち合わせのために費やされる時間は、置いてきぼりを食らったように寂しく退屈であった。

 高速道路も、青森から鹿児島をつなぐ縦貫道の最後が、熊本と宮崎を結ぶトンネルの開通であり、東九州自動車道もなお懸案であるように、陸を行く限り宮崎は、まだ確かに陸の孤島である。

 だが、海が生きていた時代があった。海は南島へ、中国大陸へ、朝鮮半島へ、直接的に南九州・宮崎を結びつけていた。そして、その南端串間市から出土したとされる日本唯一の謎の宝器がある。「玉璧(ぎょくへき)」。完璧の語源となった古代中国の皇帝が、周辺諸侯に王権の象徴として授けた紀元前1世紀ごろの宝器である。

 玉とは、一般に翡翠(ジェイド)のこと。硬玉・軟玉は混同されることが多いが、鉱物学的には硬玉(ジェイダイト)が翡翠、軟玉(ネフライト)は別種に分類される。古代中国において用いられたのは軟玉の方、硬玉は18世紀以降に用いられるようになった。璧は直径20センチ前後、厚さ1センチ以内のドーナツ盤の形を指す。古代中国において玉は最上位に位置付けられ、次いで金、銀、銅であった。

 福岡県志賀島で出土したとされる国宝「漢委奴国王」の金印は、漢帝国の皇帝が北部九州の王に授けたものと理解されるが、玉璧はこれに相当、いや価値序列からはその上位に位置する。司馬遷『史記』の故事では、一国の城に値する宝器としている。

 まだ記憶に新しいが、北京五輪のメダルの裏にはめ込まれた宝石も、この玉璧がモチーフ。中国大陸において古代から連綿と最高位を意味するのが「玉」であり、「璧」という形であった。

 串間出土とされる玉璧は、直径33・3センチもあり、特別な大きさに分類される。器面は同心円状に三つに区分けされ、幾つかの象徴的な文様が刻される。外側は双身の竜、中間は粟粒状の穀粒で満たされ、内側には双身を絡めた鳥が描かれている。玉璧の中でも手の込んだ文様構成だ。

 では、その出土来歴はいかなるものか。現在は東京の公益法人前田育徳会、つまり旧加賀藩前田家(石川県)の所蔵。桐箱に納められ、箱の表の中央には大きく「古玉璧」、脇には「多気志盧蔵」と所蔵者名が書かれている。

 この人物は、三重県松阪市出身の幕末の探検家で、北海道の名付け親とされる松浦武四郎である。内側には「文政元(1818)年、日向国那珂郡今町村で農業を営む佐吉が王之山を耕作中に石棺を掘り当て、鉄器や玉類30点余りと一緒に出土した」と記されている。武四郎と親交のあった漢詩人、小野湖山の明治10(1877)年の筆である。

 さて問題はここから。検証の結果、湖山の筆であることは間違いない。しかし、今町村を現在の串間市に求めることは問題ないとしても、王之山なる地名が市内に残されていないのである。しかも、串間市の考古学情報は極めて少ない。これが障壁となっている。金印であれば、福岡県内から得られる膨大な考古学情報が出土を支持している。だが、この南端に、果たして金印を凌駕する宝器を得るような王が存在したのだろうか。

 近年の考古学の蓄積は著しい。例えば稲作の伝播は、紀元前10世紀ごろ、まず北部九州に、そこから南に北に広がったと考えられてきたが、南九州にも、もう一つの窓口があったことを明らかにし始めている。その時期の朝鮮半島との関係を細かく見れば、後の新羅に重なる半島東南部は北部九州、後の百済に重なる半島西南部は南九州に中心的な経路を有していたのではないか、と指摘されている。

 こうして、沖縄など南島へひらいた南九州・宮崎の海の道は、その先に確かに中国大陸をとらえていたのである。こうした南九州の地理的状況を無視して、玉璧の存在は語ることができないのである。

 古代東洋で権威の象徴とされた玉の遺物を集めた日本、韓国、台湾の国際交流展「玉と王権」が西都市の西都原考古博物館で12月13日まで開かれている。3カ国から240点を展示し、東アジア地域の玉の文化を紹介している。

 展示の目玉は、漢王朝が配下の王侯に授けたとされる「玉璧」。中国では数多く出土しており、今回は台湾から10点、韓国からは朝鮮半島で唯一見つかっている1点が展示されている。

 そして、日本からも1点。串間市で見つかったと伝えられる国内唯一のものだ。出どころがはっきりすれば国宝級の逸品。しかし、古代中国の宝物がなぜ串間市に――。

 展示品の意味をひもときながら、同館主幹の北郷泰道さん(56)にシリーズで古代日向の素顔に迫ってもらう。(毎週1回、水曜日に掲載する予定です)

北郷泰道さん

 立正大学文学部卒。80年度から県教育庁文化課に勤務し、県内の発掘調査に従事。主要著書に「西都原古墳群」(同成社)など。

2 石棺・鉄器 県南の特色/玉壁の箱書き

玉璧

 「お宝」鑑定のテレビ番組に、時に土器・石器などが登場し、評価は金額として示される。しかし、発掘・発見した考古資料は遺失物法による届け出などが必要だ。そして何よりも、文化財保護法に定める国民的財産である。

 歴史を解明する資料としては「どこから・どのように」出土したのか、正確な情報が不可欠であり、その欠落は価値を著しく減ずる。「日向国那珂郡今町村(串間市)」出土と伝わるかの玉璧が、国宝などに指定されていない致命的な理由もそこにある。

 幕末の探検家、松浦武四郎が入手し、前田育徳会(東京都)に渡った経緯は全く不明で、私たちの手元には、一つの箱書きが残されているだけ。古今東西、古物の宝器をわが村出土だと偽る、つまり「捏造」がないわけではない。果たして、その内容に信憑性はあるのか。

 もちろん、先学たちもこの玉璧の謎に挑んだ。石棺が見つかったとされる「王之山」に似た地名を探索して「王子谷」なる場所を発掘し、出土遺構の石棺を求めて銭亀塚を調査した。だが、中心となった郷土史家、瀬之口伝九郎(1876~1953)は、その報告の最後をこう締めくくらざるを得なかった。

「璧ノ出所ハ不明ノ侭、後日ニ譲ル事ニナツタ」と。

 しかし、箱書きの内容は地名の点を除けば、実は破綻がない。

 まず石棺は、弥生時代から古墳時代にかけて様々な型式をとり、埋葬の重要な役割を担った。だが、どこにでも造られたわけではなく、その分布には濃淡がある。県央は少なく、県北は延岡から日向、県南は日南から串間にかけて多く見られる。串間には市木箱式石棺群や石室を持つ鬼ケ城古墳群があり、いずれも海を展望できる場所に築造されている。石棺から出土したというのは、県南の特色と整合するのである。

 また、鉄器と共に出土したとされていることも重要である。玉璧の時代には、もう一つの金属器があった。世界史的には鉄器に先立ち誕生し、独特の文化を作り上げた青銅器である。国内では畿内を中心とした銅鐸と、北部九州を中心とした銅剣・銅矛が象徴的であり、島根県斐川町の荒神谷遺跡では84~85年にその両方が多量に出土して注目された。

 もし箱書きが作り話として、生半可に古代史の知識を振り回せば、青銅器と共に出土したと言ってもよいところである。だが、青銅器を伴わないと言うのが、南九州では正解なのである。

 南九州は青銅器に背を向けた。確かに、「破鏡」と呼ばれる銅鏡の破片は、数点出土している。そして、正式な発掘調査の成果ではないが、鹿児島県志布志市の土橋遺跡から銅矛が一振り出土したとされている。

 だが、それだけ。ないに等しいところに歴史的意味がある。鉄器が伴ったという点は南九州を、石棺から出土した点は県南を示し、矛盾はないのである。

 さらに串間からはもう一つ、これも残念なことに出土来歴や出土地などが判然としないが、中国大陸との交渉を物語る、希少かつ重要な遺物が出土したとされている。刀のような形で「明」の字の浮き彫りをもつ「明刀銭」。秦に先立つ燕の時代、紀元前3世紀の貸銭である。これまで日本での出土は、那覇市の城岳貝塚など数例しか知られていない。

 こうして中国大陸―南島(奄美・沖縄)―南九州、点と点を結ぶのは、死してなお、海を望んで眠りにつくことを願った人々の存在なのである。

◇前田育徳会所蔵の玉璧を納めた箱書き(現代語訳)

 「文政元(1818)年、日向国那珂郡今町村で農業を営む佐吉が王之山を耕作中に石棺を掘り当て、鉄器や玉類30点余りと一緒に出土した」

3 倭国と違う住居の姿 南九州の独自性

花弁状間仕切り住居
 『三国志』を映画化した『レッドクリフ』の批評はおくとしても、登場する諸葛孔明や劉備、曹操などの活躍は、生き生きと目の前に蘇(よみがえ)る。しかし、邪馬台国や卑弥呼となると、途端に深い霧の中に迷うのである。三国志の勇者たちと卑弥呼は、相まみえる機会があれば会うことが出来る同時代を生きていた。だが、かくもその存在の現実味の落差は何であろうか。

 玉璧の時代は、主に弥生時代に相当する時代、しかし銅鏡がそうであるように古墳時代まで伝え残される可能性もある。そのような時代となると邪馬台国の話題を避けて通ることは出来ない。

 従来、邪馬台国は弥生時代の範疇でとらえられてきた。しかし、近年の研究は、248年の卑弥呼の死、つまり3世紀中頃を弥生時代終わりとみるか、古墳時代初めとみるか、卑弥呼が葬られた墳墓が古墳時代の象徴である前方後円墳であるのか、が焦点となってきている。

 邪馬台国論争となると、例えば『魏志倭人伝』に記された「東南陸行五百里」など方位や距離をもっぱらの問題としてきた。しかし、記述の誤りなどとして方位や距離を読み替える恣意的解釈から逃れ、少し視点を変えて見たらどうであろうか。

 国の数である。倭人伝では、邪馬台国を都とし、卑弥呼に従う国々は30、それが倭国とされる。その範囲が列島全体に及ぶものだとしたら、余りに少なすぎる。

 国の規模を最も大きく見て、律令時代の国としても九州から播磨(兵庫県)あたりまでで優に30の国々を数え上げることが出来る。逆に、壱岐国(長崎県)・対馬国(同)は島の範囲、伊都国(福岡県)・末廬国(佐賀県)は市郡の範囲を超えるものでないとすれば、最も小さく見積もって市郡の大きさ、28市13郡を数える福岡県程度に収まる。

 どちらにしても倭国の範囲は、列島の一部、最小は福岡1県程度、最大でも北部九州と中国・四国の範囲と見た方がよいであろう。

 確かに私たちは今、十分な考古資料を持ち合わせている。奈良県の纒向(まきむく)遺跡(桜井市)、唐古・鍵遺跡(田原本町)など畿内や、関東、東北にも、国の中心と言える拠点的な大規模集落が在ったことを。

 だが倭人伝の著者、陳寿は、それらに触れる義理も責任もなかった。他ならない魏呉蜀の三国に関しても、魏を正統な漢の後継として、呉と蜀の記述とは差がある。周辺にまだ多くの国々が存在することを示唆するだけで十分、そこに邪馬台国を凌駕するような国があったとしても、魏へ朝貢する国でなければ記述の対象外であった。

 畿内を中心として成立した古代天皇制国家に呪縛され、倭国をあたかも現在の日本のように、邪馬台国を首都東京のように考える。そのような前提には何らの根拠もない。

 倭国の中心は、兵士の武器に「矛・楯・木弓」を用いるという記述を考慮すれば、銅矛・銅剣の北部九州にあることを支持する。邪馬台国の時代は、新たな時代への揺籃の中で青銅器による祭祀は過去のものになろうとしていたとはいえ、地域の伝統は継承されていたはずである。従って、倭国の範囲は、銅矛・銅剣の分布する北部九州から中国・四国地域に重なってくる。

 では、南九州はその倭国の範囲に入るのか。青銅器を持たざる地域である点は決定的である。加えて邪馬台国の時代、宮崎平野から大隅半島にかけての地域には、住居内部に間仕切りのための土壁を掘り残し、それが開いた花びらにみえることから「花弁状間仕切り住居」と呼ばれる特徴的な住居に象徴されるように、独自の文化が形成されていた。

 それは、倭国と袂を分かつ、南九州独自の位置の表れである。では、その位置とは――。

4 中国南部との縁 串間と南越、似た玉璧

ガラス製の璧

 円筒形のガラスの器を見て、私たちは容易にそれを「コップ」と呼ぶことが出来る。物心つく頃までに、日常生活の中で学習した結果である。では、ドーナツ盤の形状を持つ品物を見せられ、それを「璧(へき)」と呼ぶことは誰にでも出来るのか。否、よほど中国古代史に精通していなければ、それを璧と呼ぶことは出来ないであろう。

 日本に玉璧は1点だけ。しかし、ガラス製の璧は福岡県の三雲南小路遺跡(前原市)から出土している。伝串間の玉璧の4年後、文政5(1822)年のことである。当代屈指の学者であった福岡藩の青柳種信が、その詳細な記録を残している。銅鏡・銅剣・銅矛など青銅器と共に出土し(北部九州では、鉄器ではなく、青銅器を伴うことを再確認して欲しい)、スケッチ図も含めて書き留めている。

 だが、「霰紋」が施された「硝子の如し」物と記すだけで、「璧」とは記述していない。つまり、江戸時代の終わりの頃、ドーナツ盤の形状の品物を璧と認識できる博識を持つ日本人は居なかったと見てよい。その後、伝串間の箱書きに「古玉璧」と記された明治10(1877)年までの約半世紀で、謎の品物は璧として認識されたことになる。

 ともあれ、このガラス璧はかの「漢委奴国王」の金印と同じく漢から拝受したもの。北部九州は、金印の時代には漢と、邪馬台国の時代には魏と交渉を持った。つまり、黄河流域を中心とする華北と継続して交渉をもった。

 これに対して、南九州は長江流域から南の江南と交流を持った可能性を考えてみたいのである。つまり、わが玉璧の出どころは果たして漢なのだろうか。

 注目は、最も類似する玉璧が、広東省広州市の南越国の墳墓から出土していること。この南越、少し特異な位置づけをもって存在した。紀元前2世紀、漢の冊封(皇帝と君臣関係を結ぶこと)を受けながら第2代の王、趙昧(文王)は国内では「文帝」、すなわち大陸南方を支配する皇帝を任じていた。

 文帝は、龍の鈕(つまみ)を持つ金印と玉璧を含む玉器約240点、青銅器約500点、鉄器約250点など1千点を超える副葬品に埋もれ、方形板の玉をつなぎ合わせた絲縷玉衣に全身を包み眠りについた。その56点もの玉璧の中に、伝串間のものと類似する玉璧が含まれている。

 南九州はこの南越と交流し、そして後の邪馬台国の時代には、魏ではなく江南を治めた呉と交流した可能性はないのか。その根拠と、江南を目指す南九州独自の位置を認めることで、初めて解ける古代史の謎については改めて触れたい。

 その前に、考古学情報が少ないとはいえ、県南に残された遺跡が十分に海を意識させるものであることを見ておきたい。太田井丘遺跡(串間市)は、弥生時代後半の遺跡で、注目は具象・抽象の絵や文様を描く絵画土器。近畿地方で目立った出土を見る一方、南九州でも多く見られ、瀬戸内海を経由する海の道によって結ばれた両地域の密接な関係を示唆している。

 古墳時代には、銅鏡や勾玉などを出土した油津山上古墳(日南市)、6世紀代の県内最大級の横穴式石室である狐塚(同)は、海を見下ろす丘陵や砂丘上に築造されている。また、地下にL字の穴を掘った南九州独自の墓制の崩先地下式横穴墓群(串間市)も海を展望する遺跡の一つである。

 さらに唐人町遺跡(同)は、県南で発掘調査された数少ない集落跡である。その地名「唐人」の由来は後の時代にあるとはいえ、何よりも中国大陸との交易の証しである。また16世紀後半、ポルトガルの情報を基に作成された日本地図に「Minato」とあるのは、湊=崎田港のことと指摘されるように、串間に日本を代表する港が確かにあったのだ。(西都原考古博物館主幹)

5 貝の道 かつて「津梁」の輝き

貝輪

 万国津梁(世界の架け橋)として自らを位置づけた琉球=沖縄。飛び石のような小さな島々が独自の存在を誇示し得たのは他でもない、海にかけた架け橋なればこそ。かつて南九州・宮崎が、そうした役割を担った時期がある。すでに歴史的に解消され、基層に埋め込まれてしまったかのようなその役割にこそ、古代日向の輝きの源泉があった。

 貨幣に絡む多くの漢字に「貝」の字がつくのは、古代中国で宝貝が貨幣として用いられたから。そうした貝貨は、アジアに限らず広く世界中に認められる。さらに、貝は貴重品として価値が認識され、装身具などにも加工された。

 かつて、琉球諸島から種子島、そして南九州に至る重要な交易の経路があった。南島を数珠のように繋ぐこの経路を「貝の道」と呼ぶ。広く見渡せば南太平洋のニューカレドニアからフィリピンの島々を経て台湾、琉球諸島へと至る壮大な海の道である。

 交易の対象となった貝は、大型の巻き貝ゴホウラ、円錐状でやや小型の巻き貝イモガイ、雨傘のような笠貝のオオツタノハなど。いずれもサンゴ礁に生息する貝類で、ゴホウラ、イモガイは奄美以南の琉球諸島、オオツタノハは比較的北部の種子島近海で採れ、それらで作られた腕輪は「南海産貝輪」と呼ばれている。

 交易は、採取地―経由地―消費地を結んで成立する。貝の道では「採取地」として存在感を示した沖縄には、原材料の貯蓄が見られる。伊江島のナガラ原西貝塚(沖縄県伊江村)で多量に出土した未加工・粗加工のイモガイやゴホウラは、その例である。

 「消費地」には、貝製品を着装して埋葬されるという「消費」がある。弥生時代に最も貝製品を消費したのは北部九州、その広がりは中国・四国に及ぶ程度だった。

 しかし、古墳時代に入ると、九州から瀬戸内、畿内はもとより東日本にまで広がる。そして、貝輪だけではなく、馬具の飾り金具などにも用いられるようになる。また、ゴホウラ製貝輪は、5世紀代の百済の古墳から、イモガイ製馬具は5~6世紀の新羅の古墳からと朝鮮半島へも広がりを見せる。

 そして、それらを結ぶ「経由地」、南九州にまず着岸するが、弥生時代には九州の西側薩摩半島を経由し、北部九州へと至る経路が想定される。実際、東側の宮崎での貝輪の出土は、内陸部の大萩遺跡(野尻町)のみで、これも西側経路からもたらされたものであろう。

 県内に貝輪が本格的に広がるのは5世紀から。そのためこの時期に東側経路が新たに開拓されたとの見方がある。ただ、地下式横穴墓からの出土は偏在している。えびの・野尻を中心とした内陸部に29例と圧倒的に集中し、宮崎平野や大隅半島は8例と少ない。依然として西側経路が機能し、東側経路については、大隅半島に着岸した後、都城盆地を経由する内陸経路が採用され、内陸部が主な消費地にもなったと見られる。

 この東側経路の開拓に大きな役割を果たしたのが、中国大陸の青銅器や玉器文化の影響を受けた多量の貝製品が出土した種子島の広田遺跡(鹿児島県南種子町)である。弥生時代後半に北部九州での消費が落ち込み、採取地であり経由地でもあった広田遺跡は、だぶついた貝製品を自ら消費すると共に、新たな消費地を開拓することになったのである。

 経由地には、自らのもとに残すべきものはなくてもよい。しかし、経由地=「津梁」とは、スルーパスすることではない。交易を取り持つ権益が独自の位置を保証する。その古代日向の権益を掌握し、表舞台に躍り出た人物こそ、他ならない「諸県君」であった。

6 朝鮮へ南回り 畿内に北部九州の壁

玉璧

 古代における日本と朝鮮半島の交流を描く時、その中心に畿内を据え、瀬戸内海から関門海峡を通過する経路を示す地図が、なぜか何の前提もなく使われる。「何の前提もなく」とは、この「北回り経路」を北部九州の王=筑紫君に断りもなく使えたのか、逆に瀬戸内海から日向灘へと南下し南九州を経由する「南回り経路」を掌握する南九州の王=諸県君と畿内王権との親密な関係について考慮することもなく、という意味である。

 結論を急げば、継体天皇が筑紫君磐井を討った6世紀前半、この時初めて、畿内王権にとって北回り経路の自由が保証された。後の大宰府の設置は、その具体的な楔である。いわゆる「磐井の乱」とは、磐井が新羅と通じ、畿内王権の半島への遠征を妨害したこと、そして畿内王権によるその鎮圧であった。ここに見えてくるのは、伝統的に北部九州が半島東南部=新羅と交渉を持っていたこと、北回り経路の権益を筑紫君が掌握していたことである。

 逆に言えば、北部九州と覇権を争う畿内が半島への経路としたのは、南九州を経由する南回り経路であった。他ならない、景行天皇から雄略天皇まで、4世紀後半から5世紀代にかけて、相次いで南九州=日向から妃を迎えたのも、その関係強化のため。その行き先が半島西南部=百済であったのも、南九州が懸け橋となった当然の帰結と言える。

 南九州と半島西南部の交流は、既に触れたように、紀元前10世紀以降、稲作の始まりから顕著である。新たな時代を告げる遺構・遺物は、床面中央の楕円形の凹みが特徴的な松菊里型住居(韓国・扶余の遺跡名から命名)、金属器と見まがうばかりに磨き上げられた大陸系磨製石器、器の縁に小さな孔を連続的に施す孔列文土器など。半島と九州北部、南部で見つかったそれらの様相を子細に観察すれば、南九州にも大きな窓口があったこと、半島東南部は北部九州・出雲、半島西南部は南九州に結ばれていたことを知るのである。

 時代は下って、三韓時代(馬韓・辰韓・弁韓の小国家群)には馬韓、三国時代(高句麗・百済・新羅と伽耶などの小国家群)には百済、すなわち半島西南部で日本とのつながりを示す象徴的な在り方が明らかになり始めている。それは、北部九州と一衣帯水の地にある半島東南部の釜山・金海周辺の伽耶に見られる日本的要素とは、大きく様相を異にする。

 まず、日本独自とされていた前方後円墳が、光州など栄山江周辺に限定して確認され、現在では13基を数える。加えて、これも半島にはないとされてきた横穴墓も公州郊外で確認された。少し注釈を加えると、横穴墓は戦前にも確認されていたが、単発の発見で忘れ去られた事例であった。丹芝里遺跡で、群集した23基が発掘調査され、誰も無視できない存在となった。

 その横穴墓、日本ではどのように誕生したのか。端緒は、半島に成立した横方向に入り口を持つ墳墓。縦方向の埋葬施設では、埋めると再び掘り上げ、追加して葬るのには適さない。横方向の埋葬施設は、入り口をふさいでも再び開き、家族単位の人数を葬ることを容易にした。

 このアイデアから、まず南九州の内陸部で、井戸のように縦穴を掘り、そこから横方向に空洞の部屋を掘る独自の地下式横穴墓が誕生した。それは、北部九州の周防灘沿岸に伝わり、山腹に玄室を掘る横穴墓を誕生させ、全国に広がる。そうした経緯から、半島での横穴墓の築造に、南九州が深くかかわった可能性は大きい。

 こうして、南九州が持ち得た固有の窓口と、列島内外への発信力を考えなければ、全国有数の西都原古墳群の存在や、天孫降臨に始まる「日向神話」の意味も、読み解くことは出来ないのである。

7 南九州の代表権者 牛諸井、瀬戸内まで

舟形埴輪・朝鮮半島中国大陸を結ぶ経路

 3世紀の卑弥呼のように、5世紀にも「倭の五王」と呼ばれる謎の人物たちがいる。謎たる所以は、5世紀に完成した中国の史書『宋書』の「倭国伝」などに現れるが、『古事記』『日本書紀』と直接結びつかないこと。そこで試みられているのが、五王を応神天皇または仁徳天皇から雄略天皇までの歴代の天皇(大王)にあてることである。

 しかし、ここで問題にしたいのは、そうした人物比定についてではない。8世紀に書かれた『記・紀』では、その時期の中国大陸の相手先を「呉」と記していることである。「くれ」と訓じているが、3世紀の三国時代(魏呉蜀)の呉が記憶されていることは間違いない。しかし、4~5世紀は南北朝時代、呉に代わり大陸江南(揚子江下流の南部)を治めたのは南朝の東晋・宋。それなのに呉とするのには、理由があるはずである。

 卑弥呼が魏から賜った百枚の鏡の有力候補とされる三角縁神獣鏡。そもそも中国大陸で未だ出土を見ないことから魏の鏡ではなく、文様などの要素からも江南の特徴がみられ、列島に渡った呉の工人が製作したとの考えがある。

 その考えにかかわる「景初四年」と記された鏡が高鍋町の持田古墳群から出土している。「景初」は魏の年号であるが、卑弥呼が魏に使いした景初3(239)年の翌年に改元され、実際には「景初四年」は使われなかった。魏の動向と無縁な工人によって鏡が製作された、と指摘されるところにも、呉の存在が見え隠れする。

 さて、三角縁神獣鏡の保有の中心は畿内。だから、邪馬台国畿内説の有力証拠とするのだが、その畿内の「記憶」は、魏ではなく呉である。華北を志向した邪馬台国ではなく、江南を志向した畿内だからこそ、三角縁神獣鏡の中心となりえたのではないか。つまり、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないし、邪馬台国は畿内王権にはつながらない。だから、倭の五王の時代も、北朝ではなく南朝が相手先なのである。

 いま一つ、奈良県天理市の石上神宮に伝世される、金象眼で銘文が施された七支刀にも注目したい。卑弥呼の後、そして倭の五王に先立つ時期、紀年銘「泰和四年」を東晋の年号「太和4(369)年」と読み、東晋で製作され、百済から畿内に贈られたと考えられている。それらは、江南―朝鮮半島西南部―畿内と結ばれる。そして、その線上に南九州の存在を見いだすことで、古代史の謎解きの糸口が見つかるはずである。

 まさに倭の五王の時代、南九州=日向から畿内王権に相次いで妃が嫁いでいる。その中で注目したいのは、妃の父親の名前が唯一記された諸県君牛諸井について。そもそも「諸県君」とは、南九州の代表権者に冠されるもの。『日本書紀』の応神天皇の条に登場する牛諸井の存在は格別である。

 牛諸井は畿内王権に仕え、老いて郷里に隠退を迎える。代わりに娘の髪長媛を天皇に嫁がせることを申し出る。注目すべきは、その場面。

 天皇が淡路島で狩りを楽しんでいた時、海に浮かぶ十数の牡鹿が、播磨の鹿子水門に入るところに遭遇する。一体何なのか、と使いに確かめさせたところ、角の付いた鹿皮を纏った、牛諸井を長とする一軍であった。象徴的な狩猟の民を思わせるいでたち。その上で、諸県君が瀬戸内海の権益を掌握する水軍、いや水陸両用の軍団を率いていたことを知らせている。

 南九州は、古くは森の恵みに育まれた文化を誇った。しかし、新たな水田耕作は火山灰台地の卓越する土地には不向き。その不足を補って、独自の力を与えたのが海の支配権であった。西都原古墳群出土の舟形埴輪は、初めて外洋に漕ぎ出す船の存在を知らせたが、まさにそうした船を操り、角の付いた鹿皮を身に纏った諸県君の姿に、古代日向の栄光と挫折が見えてくる。
 
 
 

ページトップへ


powered by Quick Homepage Maker 4.53
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional